ジェットコースターに乗らない人は怖い話を読む
結局何がしたかったのか、何を取り入れてもどこにもたどり着かない。
自分が確固たる事実だと断言できていたものが如何に実体がなく環境依存的だったのか。
お金と時間をかけて、現実味だけが薄れていく。
昨晩家の前の道を歩いている時、遠くを白い犬が横切った。
「犬。」と声に出した。
(最近頭が根詰まりを起こさぬよう、思い浮かんだ言葉を口に出すようにしている。)
その直後「犬ってなんだ。」と口について出た。
目の前を通ったモノが「犬」であることはわかる。
ただ、それが何を意味するのかが結びつかない。
「犬」は私に何かを想起させていたはずだ。
この世で触れたことのあるモノすべてが私の記憶と紐付いているのだから。
ただ、その時の私には「犬」が自分にとってどういう存在で、犬を見る度に多少なりとも反応していたはずの心の動きがどのようであったかを、何一つ思い出すことができなかった。
それで初めて気づいた。自分が感じている現実との乖離の正体が「人生にあふれる記号の意味、またはそれら記号と記号の結びつきが理解できないこと」であることに。私が家路を辿ることも、時間を調べて電車にのることも、仕事をすることも、友人と話すことも、休みの日にジャズのレコードを聞くことも、もしかしたら展覧会で美しい絵に出会うことも、今の私にとってはただ昔の行動を反復しているだけで、その全てがなんの意味もなしていないのかもしれない。
そう思った瞬間、目の前の景色が大きく崩れた気がした。
階段がぐにゃりと歪んで、境界線が溶け合って、とてつもなく恐ろしかった。
それでも足は立ち止まることなくきちんと階段を上がる。
私は一度も踏み外すことなく階段を上りきることができる。
相変わらずの暗渠での生活。
慣れたもので、気づいてもいなかった。
もう取り返しはつかないのか。