11月25日(土)の日記

 昨夜は美しい人と会った。美味しい料理を挟んで、色々な事柄を話した。人は往々にして会話をすることで、心情・理念・あるいはそれらに成る前の核を吐露し、机上に並べる。そういったモノたちをお互いに眺め合うことで、目の前にいる人の人となりに輪郭を与える。だからこそ、尊敬し崇拝する存在の前では思わず萎縮するのだ。自らの言動・身だしなみ・所作の端々からにじみ出るそういったモノたちを掬い取られ、理解されてしまうことを恐れて。話が逸れた。本題は、美しい人だ。昨夜は往々にしての例には当て嵌まらなかった。ただ物理的に距離が縮まって、ほんの2,3時間その位置にお互いが留まって、また元の距離に戻っていったという形容が近いだろうか。そこにあるのは本当にただ物理的距離の問題だけだった。昨日読んでいた本に、“いかにも親密そうな、それでいて中身のない会話”という表現が出てきた。描写するのであれば恐らくこの文言が適切である。本の文脈と私が今話しているそれとの違いは、前者は明確にシニカルな響きを示しているのに対し、後者はネガティブかポジティブかその中間か、そこの判断すらついていないところだ。美しい人に対するカタチを取らない様々の想いが、気づくと目の端で裾をチラつかせる。捉えることのできないそれらが心に少しずつノイズを起こす。帰り際、店の壁に擦れた美しい人の美しい上着が汚れてしまっているのが目に入った。私はそれを教えなかった。美しい見た目になりたいと思った。

 

 今日は、コーデュロイの黒いセーターに光沢のある紺のミモザ丈スカート。その上から薄水色のスプリングコートを羽織り、足元は紺色に染められた革と茶のスエードが組み合わさったブーツを履いている。カバンは緑と青の中間色に染められた革製のトートを選んだ。寒いかもしれないと巻いてきた青と赤のチェック柄のマフラーは暑くなってきたので、歩き出して早々に外してカバンにしまった。家を出てひと駅分東に歩く。使っている銀行のATMが隣の駅にしか無いのは不便だ。用事を済ませてから、今日の大きな目的である“『たゆたえども沈まず』読了”を達成するため“フヅクエ”というカフェに入る。読者をするあるいは一人の時間をゆっくり過ごすためのカフェであるらしい。アイリッシュ・コーヒーとドライフルーツ盛り合わせを注文して、本を読み進める。気づいたら6時間も滞在していた。途中煙草を吸いたくなったので、店主さんにポケット灰皿を借りて店の前の電柱の脇で煙草を一本吸った。喫煙時はそうするようにとメニュー表に指定があった為だ。その店はあらゆる行為に対して明確な指示がされており、店内では最低限の会話しか発生しないように設計されているようだ。そのせいでメニュー表がA4サイズ20枚位に上っており、全部読んだので注文までに10分ほどを要した。煙草を吸っている時に気づいたのだが、陽が傾き始めていたので外は思っていたより冷えていた。それに加えて座った席が運悪く窓際だったことも相まって手がかじかんでしまった。何か温かいものを飲みたくて、メニュー表をパラパラと捲る。ホットカクテルの項目があったので、おすすめを聞いてみた。本当はホットビールが飲みたかったがなかったのだ。あの店の雰囲気にきっと合うので、ぜひ加えてほしいところではあるが。おすすめされたのはホットジンスリングという温かいレモネードにジンを加えたようなカクテル。とても美味しかった。5時間も滞在したためくだんの書籍はとうに読み終わっていた。これでやっとゴッホ展に行ける。その後恋人とゴッホの映画も観に行こうか。いや、できれば展覧会の前に映画も見ておきたい。色んな人のゴッホを観たい。私の中のゴッホが固まってしまわない内に。

 

<以下、店内でのメモ書き>

今座っている席からそのまま視線を窓の外に伸ばすと、向かいのビルの一階に入っているフレンチだろうか、レストランの中が見える。家族連れらしき数名がコース料理を楽しんでいるようだ。会話まで聞こえてくるような、見ているだけで和気あいあいとした雰囲気が伝わってくる。彼らは少なくとも2時間は食べ続けている。自分はこの店に6時間居座っているので決して他人様のことは言えないが。中の様子が見えるのは窓ガラスが2枚はめ込んであるためである。窓ガラスに最も近い席に座っているのは、少し頭頂部が寂しくなった初老の男性のようだ。私が今居るのが2階なので、自然と上から見下ろすカタチとなるのだ。よく話す人のようで、身振り手振りを交えながら向かいの席に何かを語りかけている。重心を少し左へ傾けると、覗いている窓ガラスと窓ガラスの間の壁が移動して、初老の男性を隠した。代わりに向かい側の席に座っている人物が現れる。先程までの人物より少し若い、こちらも男性のようだ。角度が悪く、顔の上半分はあまり見えない。Vネックのニットを着ており、白いYシャツの襟を外へ出している。初老の男性へ受け答えをする口元は常に笑みが湛えられていて、穏やかな人物であることがうかがえる。ケータイの充電が切れそうだ。そろそろ店をでなければならないとは思っているのだが、恋人には連絡がつかないし、そんな状態で寒空の下トボトボ一人で歩くのは想像しただけでもとても寂しい。文字を出して頭の中を整理すれば次の行動のきっかけでも思いつくかもしれないとこの日記を書き始めたが、終りが見えてもまだ何も思い浮かばない。とりあえず店を出て、恋人へ電話でもしてみよう。それからどこへ向かうか決めよう。