横浜の青さとカッパドキアの白い砂

はるか昔、私が子供で、つまりは家の外をまだ恐竜が闊歩していた時代。

私の家には小鳥が二羽住んでいた。

 

彼らはとても美しかった。美しい白文鳥だった。

口を開けると頭を突っ込んできて歯を掃除してくれたし、名前を呼ぶと返事をしてくれた。

 

 

今でも彼らの残した白い糞尿の跡が家のあちこちにあるはずだ。

彼らがいなくなってから、「どうか消さないでくれ」と家族に頼んだのだ。

 

彼らは、兄がこの世を去ってから半年近くが経ったころ、母への誕生日プレゼントとして家に来た。

学校に行っていなかった私は、必然的に一番長い時間彼らといることになった。

 

恐ろしくなるほど小さくて美しくて、自分たちの美しさを理解していない彼らは、私の最高に幸せな悩みの種だった。

後先考えずに飛び回って家の中の穴という穴にハマるので、10分でも彼らの姿が見えないと不安になって家中を探し回った。

ほとんど育児ノイローゼのような状態になりながら、一日の大部分を彼らと共に過ごしていた。

紛れもなく、私のこれまでの人生でもっとも愛しい時間だった。

 

美しいモノと時間を過ごすということがどういうことか想像できるだろうか。

瞬間々々が克明に記憶に焼きつき、その後の人生に影を落とす。

命を持つ美しさの暴力に、人はアテられるのだ。

 

彼らの美しさもまた、私の人生に褪せることのない傷を植えつけた。

共に過ごした時間が短っただけに、その鮮やかさは比べようもなく強烈で、私は面食らって、立ち尽くして、その悲しささえも美しいと感じることしかできなかった。

 

もう二度と、あれほどの親密さを持って、自分より儚いモノと関わることなどできない。

だから、いつか自分一人の部屋を持ったら、銀でできた小鳥の置物を買おうと思う。

美しいモノへの畏怖と賛辞を表するために。